はじめに
各地で権力者層が力をつけ格差社会が広がる中、平等主義を掲げた宗教が世界各地に現れました。
その中でも世界で最も信者の多いキリスト教、世界にどう影響していくのでしょうか。
キリスト教の広まり
平等主義を説くキリスト教の考えは各地で王権に弾圧されていた人々の共感を生み、その使徒たちによって各地に広まり、大きな力と団結力を持ちました。
各地の王権は自分たちに反発する存在であるそんなキリスト教を認めるわけもなく、各地で弾圧されていました。
しかしそんな弾圧の中でもキリスト教徒は増え続け、帝国内の帝国と呼ばれるほどに組織は力を持ちました。
キリスト教の国教化
やがてローマはコンスタンティヌス1世の時代になります。
ローマは当時幅広い領土を一人の王では統治できず、4分割してそれぞれ統治されている時代でした。
コンスタンティヌスの父はその4つのうちの1つの地区の皇帝でしたが、不慮の死にあい、その後継としてコンスタンティヌスが皇帝に就任するのは厳しい状況でした。
そこでコンスタンティヌスはキリスト教徒を味方につけることを思いつきます。
この計画はコンスタンティヌスの母がキリスト教徒であったこともあり、大成功して多くの支持を得ます。
こうしてキリスト教はローマで313年に公認され、392年にはローマの国教とされました。
しかし、コンスタンティヌスはあくまでキリスト教を政治手段として利用しただけであり自身はキリスト教を信奉してはいませんでした。
この時よりキリスト教に政治が介入しはじめます。
キリスト教の政治利用
その後、西ローマは滅亡しますが、その後もローマ・カトリック教会は残り、時代によって様々な国の保護を受けます。
教会を保護することでその多数の信者を自分の国の力として取り込めます。
それとは別に東ローマはコンスタンティノーブル教会というキリスト教の別の一派を保護し、ギリシア正教派をとなえますが、こちらは皇帝教皇主義の形を取り、皇帝が教会の最高指導者も兼るという完全に宗教組織を利用した独裁制でした。
このように国同士がキリスト教という看板を立てて東西に分かれ争うようになります。
表向きの言い分は宗教による戦争ですが、実際は政治争いであり、宗教の名を借りれば民衆を統一しやすいという利用手段で名前を使っているにすぎません。
戦争の道具に変わっていくキリスト教
政治に利用されることでキリスト教の教義はどんどん支配階級に都合のいいように解釈・改定され、聖職者階層制組織(ヒエラルキア)などが作られます。
平等主義を唱えていたキリストの教えとは完全に矛盾しています。
そして11世紀になると力をつけたイスラム教の国が侵攻してきます。
危機に陥ったコンスタンティノーブルはローマ教会に支援を要請します。
ローマ教会は東西統合の機会と考え十字軍を派遣し第1回十字軍で聖地エルサレムを奪回します。
この時十字軍はエルサレムの城内になだれ込み、非戦闘員も含めて虐殺の限りをつくしました。
この記録はイスラム教圏、キリスト教圏どちらの資料にも残されており、死者は7万人にものぼったと書かれています。
しかしこのエルサレムもすぐにイスラム側に奪い返され、十字軍の派遣は第7回まで続きましたが結局奪い返せませんでした。
この十字軍も宗教という名目だけで実際は権力者による領地争いです。
第4回十字軍に至っては東西教会の統合を名目にイスラエルではなく、支援を要請したコンスタンティノーブルを攻撃してしまいます。
これらのイスラム教の侵攻、東西の教会の争いは宗教の名の下に行われていますが、実は権力者たちの領地争いでした。
「神のために」という言葉を使えば民衆は従って戦争に行ってくれたのです。
コンスタンティノーブルはこのあと、オスマン帝国に攻撃され、その首都イスタンブールと名前も変えられ、正教会はロシアの保護に移っていきます。
ローマ教皇の腐敗
このように政治利用されてどんどん変わっていくキリスト教。
ローマ教皇は実際は封建領主であり、その生活は贅を尽くし、選出のたびに醜い政争が行われました。
さらに免罪符という贖宥状を発行、これを買えばどんな罪も許されるというもので、ローマ教会は完璧なただの金儲けを始めます。
やがて15世紀、ルネサンスの風潮が広がる時代、人文学者たちは形骸化した信仰のありかたを批判し始めます。
そしてマルティン・ルターやカルヴァンが宗教改革を起こし、キリスト教の本来の教義を復活させようと新たな派閥プロテスタントを起こします。
この新たな派閥の登場によりローマ教会はその力をヨーロッパ圏で失っていきます。
19世紀になると、それまでローマ教会は中部イタリアに領有してましたが、イタリアが主権国家として統一を目指すようになりローマ教皇領も占領、ローマ教皇はヴァチカンに閉じ込められます。
その後、イタリアのムッソリーニはファシスト党独裁体制の安定のためにローマ教会との和解を図りヴァチカンの主権国家としての独立を認め、ヴァチカン市国が誕生します。
イエズス会の布教
話は16世紀に戻りますが、プロテスタントの登場でヨーロッパ圏で力を失っていたカトリック派は教皇の権威を復活させようとイエズス会を設立、世界中に宣教師を派遣しカトリックの布教を世界中で始めます。
この時に布教が成功したフィリピンや韓国などは今もカトリック教徒がたくさんいます。
しかし布教が成功しない場合は武力で占領してその土地を侵略、その時に始まったのが黒人奴隷や植民地です。
この宣教師は日本にも来ていますね。
しかしその布教方法は宗教という洗脳を利用した侵略に近いものがあり豊臣秀吉により禁止されます。
実際秀吉も長崎で日本人が奴隷として人身売買される船を発見して激怒したと言います。
まとめ
このようにキリスト教、イスラム教は本来は平和主義・平等主義で人々の救いとなる宗教でした。
現在ではこのような原初の考えに戻って信仰する宗派もありますが、政治によるマインドコントロールの道具に利用され、本来とは全く違う形になってしまっている派閥も多いのが現実です。
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